2011年8月19日金曜日

四国遍路-5

【5日目:8/19 約29km】
「晴れた日は太龍寺の山が朝日に輝くが、今日は曇ってるね」 女将さんが見送ってくれた。
途中標高200mほどのちょっとした峠を超えて約8km、二十二番平等寺に到着。
二十三番薬王寺までは、あと21km。
国道55号線は車が多い。トンネルを2ヵ所通り過ぎたが、車の轟音と狭い歩道には恐怖心が湧く。
距離は少し伸びるが、歩き遍路には交通量の少ない25号線のほうが良さそうだ。
25号線を進むうちに、雲が消えまた陽が照りだした。
由岐を過ぎると海が見える。
田井の浜、木岐の湊を通過。漁村の店屋でペットボトルとアイスクリームを調達したのは良いが、固いアイスクリームを食べ終わった頃、ヨメさんが「しまった!」と言う。
杖を店に忘れてきたのだ。
500m程を小走りで、杖を取りに戻りました。
小さな半島を跨ぐ峠に、車道をそれる遍路道がある。
山道だが良く整備され、数十メートル毎の木標にかかれた俳句を、歩きながら読めるようになっている。
二つ目の山道を抜けると残りはあと4km。
日陰の少ない道だが、海を見ながら歩けたのが唯一の救い。
やがて日和佐城が見えて来た。
もう少しだ。
薬王寺らしき屋根の重なりも、山の中腹に見えて来た。
赤い欄干の橋を渡って、右折すると残り約500m。
今回最後の寺の山門が、手を伸ばせば触れる位置まで迫ってきた。 (完)

徳島県内の一国打ち。計160km少々ですが、歩いてみると「長かった」というのが今回の偽らざる気持ちです。
<発心の道場>を卒業し、次回<修行の道場>に足を踏み込む時は、世俗を持ち込まないという意味では、単独行に惹かれるのですが、さてどうなりますか・・・

2011年8月18日木曜日

四国遍路-4

【4日目:8/18 約28km+α】
十九番:立江寺へ向かう旧道は、竹藪の細い道を蜘蛛の巣を払って進むのだが、スパイラル状の迷路のようで、3度も同じ場所に出てしまった。
夜だと、キツネか狸に化かされたと思うに違いない。
立江寺から二十番:鶴林寺に向かう国道では、コンビニで製氷アイスを買いこみ、タオルにくるんで後頭部を冷やしながら歩いたが、氷もすぐに溶けてしまう。
鶴林寺に登る山道は、幅の狭い舗装道で、期待したほどの日陰がない。 日陰になるとアブも顔を出してきた。
寺の自販機をあてにして、途中でペットボトルを空けてしまったのだが、寺に着いても自販機は見当たらず、かなり悲惨な心境に。
菅笠の中にも熱気がこもってムンムンするので、トイレ横の水道で、ペットボトルに水を汲み、何杯も頭や手足にかけまくる。おかげで、靴をぐじゅぐじゅに濡らしてしまい、このあとの下りでは、マメの絆創膏がはがれて、ひりひりと痛い。
標高450mを下り切り、橋の手前に自販機が見えた時は、思わず守屋浩の「ありがたや節」を歌いそうになった。
二十一番太龍寺へ向けての登りは標高差470mだが、沢に添ったスロープは木陰も多くて楽だった。
ところでこの山は、反対側からロープウェイでも登れるのだ。
向こうから団体客がやってきたので、納経で待たされてはかなわないので、
先にご朱印をいただくことにして、納経所に杖を立てかけ、お参りを済ませて戻ってきたら、なんと私の杖がない。
どうやら団体客の一人が、故意がミスかは判らないが、取り違ってしまったようだ。
お杖といえば、お大師さんとの同行二人、4日間だけとはいえ、苦労を共にした杖がなくなってしまった。
桐製で軽く、4面に般若心経が書かれた、ちょっと小ましなやつだったのに。
山を下り、宿へ着く直前に、今日もまた突如スコールのような夕立に遭遇。
ぬれ鼠となって宿に転がり込みました。

2011年8月17日水曜日

四国遍路-3

【3日目:8/17 約35km】
この日は行程が長い。とりあえず11km先の十三番:大日寺を目指す。
スタート直後に予定していた遍路道は橋が流されて通れないとのことで、川添いの車道を行く。
道路沿いの大日寺は、ヨメさんに寄れば来たことがあると言うのだが、どうも思いだせない。
十四番:常楽寺には、山頭火の「人生即遍路」の大きな石碑がありました。
十五番:国分寺、十六番:観音寺を経て、十七番:井戸寺までは、距離は短いが、
荷物を背負って暑い日差しの下を歩いていると、徐々に疲れが溜まってきます。
そんな時、自販機を見つけると思わずホッとします。
コンビニを見ると、ありがたくて涙が出そうになります。
井戸寺から十八番:恩山寺までは17kmあるのですが、阿波踊りで賑わった徳島の市街地を抜けるコースと、街はずれを行く旧遍路道とに分かれます。
街中だとコンビニもあって嬉しいが、街はずれの遍路道には自販機はあるだろうか・・・不安が過ったのですが、エイヤっと旧遍路道を選択。
でも、こちらを選んで正解だった・・・と信じたい。
「地蔵越」という山道があるのですが、湧水の飲める休憩ポイントもあれば、
かぁ~ん、かぁ~んと心地よく響くししおどしの音に導かれながら、沢道を歩む場面もありました。
遍路で良いなあと思うのは、やはり昔の面影が残るこうした道ですね。
車道へ出てからもまた長い道のり。「あと何キロ?」と何度もヨメさんに聞かれながら、
ようやく5時前に十八番:恩山寺を打ち終えることができました。


2011年8月16日火曜日

四国遍路-2

【2日目:8/16 約31km】
吉野川を渡り、街並みを抜け、コンビニに寄りながら山裾に位置する十一番:藤井寺へ。
本堂の左からに登山口に取り着くと、木陰のひんやり感にほっとします。
しかし、まもなくいたるところからアブが出撃してお出迎え。
登り切るまでに、腕や脚3~4ヵ所を刺されました。
遍路ころがしと呼ばれる十二番:焼山寺には以前も来た事があるので、
途中の柳水庵や浄蓮庵の大杉など、記憶に残る景色には懐かしい思いがしました。


標高750mの浄蓮庵から、300m下ってまた250m登り返すと焼山寺。
納経所のお坊さんに所要時間を聞かれ、4時間半と答えると「健脚ですね」とのこと。
境内には杉の大木が多い。休憩所を借りて、街のコンビニで買ったおにぎりとパンを食べ、昼食としました。
下りの山道は快適で、旧遍路道を抜け出てほとんど車の通らない舗装道を歩いていると、
4時頃だったでしょうか、空が急にかき曇り、一転夕立となりました。
その時、生け垣の向こうから顔を出したお爺さんが、遍路休憩所を指さし「休んでいけ」という。
雨も激しくなってきたので、これ幸いと休んで居ると、お爺さんから缶コーヒーのお接待・・・
ありがたい!
この日到着した民宿でも、おかみさんが、汗で汚れた二人分の洗濯物を「遠慮なく出せ」といい、
洗濯までやっていただいた。
冷えた麦茶2リッターも卓上にデンと置いていただいたが、またたく間に乾いた身体が吸い取ってしまった。
途中から少し気になっていたのですが、私は左足裏に、ヨメさんは足の指にマメを作っていました。





2011年8月15日月曜日

四国遍路-1

出立前日の夕刻、一番:霊山寺にてお遍路に必要な最低限の衣装と道具を揃えます。
笈摺(袖なしの白装束)、菅笠、お杖、納経帳、納札、経本など。
頭に巻く手ぬぐいは「お接待」で頂戴しました。


【初日:8/15 約30km】
朝7時、霊山寺の山門を潜る。
お参りを済ませ、備え付けの「歩き遍路帳」に記帳して、いざ出発。
二番から五番は寺間の距離が短いので、トントンと打っていったが、 六番の手前でコースミス。
五差路でうっかり進む角度を間違えた。
六番:安楽寺、七番:十楽寺は禅宗系の寺なのか、山門が中国風の作りなのに驚く。
山裾の八番:熊谷寺へ向かうあたりから、暑さでうんざり、口数が減ってくる。
腹も空いて来て飯が食えそうな所を探しつつ進むのだが、歩き遍路の少ない季節は、なかなか開いている店が見当たらない。
九番:法輪寺を過ぎ、外人の美人お遍路さんに出会ったあたりから、心拍が上がり始める。
この日最後の十番:切幡寺の山門をくぐると急に頭がくらりとし、貧血状態のようで、思わずへたり込んでしまいました。
首から肩にかけてちぎれるほどだるく、軽い吐き気もあり、 顔色も悪かったようです。
低血糖もしくは初期の熱射病が疑われたので、ブドウ糖、塩分、水など、考えられるものをあわてて補給し、頭を低くして休んで居ると徐々に回復してきましたが、ヨメさんじゃなく、私が先にこうなってしまったので、もう面目丸つぶれ。
睡眠不足だった上に、昼飯も抜きで、きびしい日射の中を歩き続けたこと・・・
もっと遡れば、ランニングのトレにもずいぶん御無沙汰の上、声帯手術で入院後、ろくに運動もしていなかったので、日射に不慣れだったことも原因でしょう。
たかが”歩き” 「なんとかなるさ!」 と気楽に考えていたのですが、甘かったことを、いきなり初日に思い知らされました。
寺でらの本堂と太子堂で、必ずお経を上げていたのですが、 ここはもうその元気もなし。
納経所でご朱印だけを頂戴し、そそくさと2kmほど先の宿に向かいました。
冷房を強めにした部屋で一休み、冷たいビールを飲む頃には、体調もほぼ元に戻っておりました。

2011年8月9日火曜日

「もっと知ってほしい子宮頚がんのこと」大阪

8/6(土)、大阪ブリーゼプラザ小ホールで行われた「もっと知ってほしい子宮頚がんのこと」に参加してきました。

ティール&ホワイトリボンプロジェクト、MBS「VOICE」、キャンサーネットジャパンの三者の協力によるイベントです。
声帯の手術後、まだ日が浅かったので、CNJのスタッフとしての参加というよりは、半ばお客さんとして足を運び、デジカメ撮影のお手伝いをしながら、演者の話を聞かせていただきました。
患者の体験談としては、23歳で子宮頚がんを患った阿南里恵さんの話が胸を打ちました。
独身女性が子宮を取られる・・・そして抗がん剤治療に耐え、放射線治療も受けるわけですから、我々オヤジ(ジジイ?)の前立腺がんとは、悲壮感も違えば、病と立ち向かう覚悟も格段に違いますね。
抗がん剤の副作用で丸坊主となった写真も見せてくれましたが、すごくかわいくてすてきでした。

お医者さんの話のほうは、国立がん研究センター がん予防・検診研究センター 濱島ちさと先生。
スクリーニングの手法や公衆衛生学がご専門の方だけあって、検診に関しては詳しい解説があったのですが、ワクチンの話は時間の関係で省略となりました。
また、診断や治療法に関しても、もともと専門外ということもあって、特に触れられませんでした。
もう一人別に婦人科の先生がおられてその辺の解説をされるのなら、それでも良かったと思うのですが、「もっと知ってほしい子宮頚がんのこと」から期待する講演内容としては、範囲が狭すぎると言うか、ちょっと物足りなさを感じました。
タイトルが「もっと知ってほしい子宮頚がん”検診”のこと」なら、濱島先生お一人でも良かったと思うのですが。

8/8のMBSのニュース番組「VOICE」では、上記の模様が紹介されました。
司会が「VOICE」のキャスター高井美紀さんでしたから、これは当然でしょうね。
MBSのHPにも紹介されています。
http://www.mbs.jp/voice/jump_over/

子宮頚がんの予防に必要な事を一口で言うなら、
「10代ではワクチン、20代以上では検診を!」

2011年8月4日木曜日

無事退院

7月27日から入院していましたが、7月30日に無事退院できました。
4日間の入院でしたから、あらかじめ聞かされていたより、ちょっと早かったですね。
手術の前には、「ひげを剃らないと」と言われて焦りましたが、まあなんとかなりました。
入院中の暇つぶしにと思って、急いで文庫本を4冊買って持ち込んだのですが、そのうちの3冊は(司馬遼太郎「峠」上・中・下)すでに読んだ本でした。
良くあるんですね、こういうことが(^^;;;

当初、聞いていた病名は「喉頭腫瘤 右声帯ポリープ」
全身麻酔で「直達鏡下喉頭微細手術(ラリンゴマイクロサージェリー)」を受けたのですが、術後の説明はこんなぐあいでした。
 ・切開すると粘液が出て来た
 ・嚢胞全体を取ると声帯が小さくなりすぎるので、袋は取っていない(←ええんかなぁ?)
 ・良性だから心配はいらない
声を出してはいけないので、こちらからはあまりつっこんで訊けません(^^;;;
ネットで調べてみると、どうやらこれは「声帯嚢胞」という病名のようです。

退院後も5日間は自宅養生(抗生物質と消炎鎮痛剤を飲みながら)で発声禁止と言われていました。
筆談っていうのもめんどくさいですね。
こっちが書いた字を、ヨメさんに見せても、まずは老眼鏡を取りに行きますから・・・
まあそれほど重要な話があるじゃなし、ほとんど「首振り」か手話のまねごとで切り抜けました。

今日(8/4)無事に発声の解禁日を迎えました。
時々、うっかり返事をしてしまうこともあったので、声が出ることは判っていたのですが、調子のほどはわかりません。
ものは試しと、仏壇の前に座り、般若心経を唱えてみたところ、特にひっかかりもなく声が出たので、まずは一安心。

以前は高音域がまったくだめで、♪ドレミファソ・・・ ぐらいから擦れ始めて 、後はほとんど出なかったんですが、小声で音階を歌ってみると、1オクターブ半ぐらいは出るみたい。(^_^)v
音を延ばすと擦れて途切れやすかったのも、かなり引っ張れるようになりました。

ただ、声色はやっぱりこれまで通り・・・「オッサン声」。
若かりし頃の美声?が戻るかと思ったんですが・・・高望みだったようです。

数週間、場合によっては数ヵ月かけないと効果がわからないケースも多い・・・と聞いていたので、すぐにこれぐらいの効果が出ているなら、ひとまず手術は成功だったんじゃないでしょうか。

まだしばらく大声は出せませんけど、これで日常生活に不自由はなくなりました。